紳士とアヒル


No.9


時計の針が真上を指した頃、ぼくは木の下ですやすや寝ているアヒルを置いて、散歩に出かけた。

 

 

眠れなかった。タヌキのこと、赤い花のこと、夜空を求めた人、さらにあのカエルのことが頭の中を駆け巡り、ひどく重たい気持ちになっていた。
ひとつひとつの出会いが、ぼくの心に伸し掛かってくる。

 

赤い花は、自身を欠けさせてしまい大丈夫なのだろうか。
夜空を求めた人は、一体どこへ行ったのだろうか。
タヌキは本当にしおりを見つけられるのだろうか。

 

そしてあのカエルを、救うことは出来なかったのだろうか。

 

 

 

ぼくはポケットに入れてある赤い花びらを握りしめた。
あの狭い井戸の底で、これから先ずっとひとりで暮らすことが、ぼくにはどうしても幸せに思えない。
どうにかしてカエルを説得する方法は無かったのか。
ぼくがもう少し頑張れば、井戸の外へ連れ出せたかも知れない。

 

それとも、カエルを救おうなんて考え自体がぼくの傲慢で、どうしようもないものなのだろうか。

 

考えても考えても答えは出なかった。
月だけが、いつも通りの顔をぼくに向けてきた。
ぼくは帽子を深く被り、足を少し速めた。

 

 

この世界に来てから、ぼくは自分の心に変化に驚いていた。
他人のことなんか興味が無く、友達すらろくにいなかったぼくが、どうして彼らのことでこんなにも頭を雲で覆っているのだろう。
どうして、カエルをあんなに外に連れ出したかったのあだろう。
どうして、こんなにもみじめで苦しい気持ちになっているのだろう。


ふらふら川沿いを歩いていると、ひとつの橋を見つけた。
向こう岸まで続いているシンプルなもので、外灯がひとつだけ取り付けられていた。
ぼくは橋の外灯の下まで歩き、手すりに寄りかかって川を眺めた。

 

川はゆっくりと流れている。薄暗くてよくわからないが、あまり深くはなさそうだ。
外灯のオレンジ色と月の青白い光を両方映し、水とは思えないきれいな色をしていた。

 

 

川の真ん中に鎮座していた短い丸太を眺めていると、カメがよじ登ってきた。
カメは丸太を登りきると、長い首を精一杯伸ばし、ぼくの方を見上げてきた。

 

 

カメはぼくから目をそらそうとしなかった。
カメはひとりだった。
そして、ぼくもひとりだった。

 

『きみもひとりなんだね』
そう言ってきている気がした。

 

 

カメとしばらく見つめ合っていると、ぼくは気分が落ち着いてきた。
頭の中を覆っていた暗雲が、少し薄くなっていくのを感じた。

 

ひとりぼっちとひとりぼっち、何か話すわけでも無いけれど
ぼくは彼がそこにいてくれたことが、とてもありがたかった。

 

 


ひとりでいるのを『辛い』と思ったことなんてなかった。
花や虫と話さなくなっても、それは変わらなかった。
それが当たり前で、それ以外知らなったから。寂しいというものがよく分からなかった。

 

でも本当は、ひとりぼっちが辛かったのかも知れない。
カメと見つめ合ったまま考えた。
誰かと友達になりたくても勇気なんて持てず、願う前に諦めてしまっていたのかも知れない。
だからあのカエルに、あんなに執着してしまったのだろう。
本当は寂しいのに外へ出ようとしないカエルと自分を重ねて、じれったい感情をぶつけてしまった。
寂しいのに自分で障壁を作り、誰とも関わろうとしなかったぼくのように。

 

日が昇り始めた頃、カメは川の中へと帰って行った。
ぼくも朝日を横目に、アヒルがいる木の下へと戻って行った。

アヒルはすでに起きていて、同じく早起きな鳩と一緒にボールを転がして遊んでいた。


アヒルはぼくに気が付くと、ボール遊びを止めてかけ寄ってきた。

 


側に来ても相変わらず何も言わない。
だが、『おかえり』と言われている感じがして、ぼくは小さくふっと笑ってしまった。

 


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