紳士とアヒル


No.8

タヌキと別れて、ぼくはすぐに小石の村を出た。
タヌキのこと、赤い花のこと、そして夜空を求めた人のことが頭のなかをぐるぐる回っていた。

 

ぼくはどうしてここに来てしまったんだろう。
どうして本当のひとりぼっちになってしまったんだろう。

考えても考えても答えは分からず、ぼくは青い青い空の下を、ただただ歩くことに専念するしかなかった。
立ち止まってゆっくり考えてしまうと、よくわからない不安や恐れに飲み込まれてしまいそうだったから。
ぼくは立ち止まって休むことすら出来なくなっていた。

 

ぼーっと歩いていたら、何か固い塊にぶつかってしまい、思わず「いてっ」と声を上げた。
それは草の中に隠れていたが、古い井戸だった。
ロープはちぎれて桶は転がり、もうずいぶんと長い間使われていない様子だった。

 

 

 

だが、中を覗いて見ると、ぼんやりとオレンジ色の灯りが見えた。
中に何かあるらしい。
ぼくは井戸の中に続いている一本のツタにつかまり、降りて行くことにした。

 

 

深いような浅いような、中途半端な井戸を降り切ると、灯りの正体が分かった。
それはろうそくの火だった。
そしてそのろうそくの火を頼りに、机に向かってせっせと何か書いているひとりのカエルがいた。
狭い井戸の底には、そこら中に書きかけの何かや、古い新聞や雑誌が散らばっている。

 

 

 

「あの」

ぼくが声をかけると、カエルはゆっくりとこちらを向いた。


「やあ、いらっしゃいませ。お客さんなんて久々です」

 

カエルは手に羽ペンを持ったまま、ニコニコしていた。
「ごめんなさいね、ここにはお茶を入れる道具がなくって、なんのおもてなしもできませんが」

もじもじしているカエルに、ぼくは聞いてみた。

「こんな暗いところで何しているんだ?」

 

カエルは少し寂しそうに笑うと、ぼくを見て答えた。


「えーとですね、ずいぶん前にうっかりここへ落ちてしまいまして。私の腕じゃ壁を這うこともツタを登ることも出来ず、以来、ここで暮らしているんです。ここはとても暗くて湿っぽいですが、まぁ私はカエルですから、何の問題も無く暮らせているんですよ」
カエルは机の上にあった紙きれを手に取った。

 

「でもね、やっぱりむしょうに寂しくなる時があって、誰かに自分の話を聞いてほしくって、こうして手紙を書いているんです。
『誰か』に向けて書くと、日記を書くより筆が進むんですよ」

 

ぼくは地面に落ちている紙きれに目をやった。それは全てカエルが書いた手紙の断片だった。
封をされているものや、ぐしゃぐしゃに丸められているものもある。
手紙の量が、カエルがここにいた月日を物語っていた。

 

アヒルは古新聞の塊の上に座り、手紙の中から何枚かを選んで興味深く読み始めた。
ぼくはその手紙たちを、読もうとはしなかった。


「一緒に外にでようか」
ぼくは提案した。この小さなカエルひとりくらいなら、ぼくが抱えて上までツタを登れるだろう。
そうずれば、こんなじめじめして孤独な所から、カエルを救い出せる。

だが、カエルはぴたっと動きを止め、下を向いた。


「・・・もう本当に長いことここにいましたね、すっかり足が使い物にならなくなってしまして。
今の私には、この狭い世界を這いつくばるので精一杯なんです。
外の世界なんてとてもとても。」
カエルは苦々しい笑いをしたが、こちらと目を合わせようとはしなかった。

 

「そんなのどうにでもなるじゃないか」

ぼくはとっさに反論した。


「たとえ足が使えなくたって、外に出ればいくらでも歩く方法はあるだろう」
「でも、もう長いこと日の光もまともに見ていませんし、干からびてしまうかも」
「ならカサを持ってきてあげようか。なんなら夜に動けばいい」
「でも、でも、もう長いこと他人とろくに接していないんでうまくやっていけるか分からないし、それにそこまでご迷惑かけるわけにはいかないですし、」
「それは今心配することじゃないだろう!」


ぼくは声を荒げた。
普段出さないような声だったので、ぼくは自分でも驚いて口をつぐんだ。

 

とたん、カエルがぽろぽろと泣き出したのでぼくは焦った。
しまった、つい感情的になってしまった。
別にカエルに対して怒っているわけでも、追い詰めたかったわけでもないのに。
ぼくはどうフォローしていいかわからず戸惑っていると、カエルがゆっくりと話し始めた。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい。本当は怖いんです。
私はここに長く居すぎました。ここになじみすぎました。太陽と人から離れている暮らしに、すっかり順応してしまったんです。
外が怖いんです。かつてそこにいたはずなのに、もうそこは未知の世界なんです。
ここから離れることがとっても怖いんです。
何が怖いのかすらわからないほど、怖いんです」


カエルとぼくは、お互い黙った。
「・・・ろうそくの灯りと、時折誰かが投げ入れてくれる古新聞と古本、それに手紙。これだけあれば、十分なんです」

その後もカエルは、ごめんなさいごめんなさいと、消え入りそうな声でつぶやいていた。

 

 


「この手紙をポストに入れてくれませんか」
帰り際、カエルがぼくに一通の手紙を渡してきた。表面には、宛名が書かれていなかった。

 

「この手紙はこの世界で、私より『私』でいてくれるでしょう」

そして「来てくれて本当にありがとうございます」と、ぼくに握手を求めてきた。


しっかりと封がされているその手紙を、ぼくが開けることはなかった。
近くの街にあるポストに、ただただ投函することしか出来なかった。