紳士とアヒル


No.10

青い空がだんだんと緑色に変わっている。
気のせいかなと思っていたが、目の錯覚でも思い違いもなく、どう見ても空が緑色へと変化していた。
この世界に来てまだ日が浅いが、こんなことは始めてだった。
何か起こるのだろうか。若干の不安を抱えつつ、ぼくは先へと進んだ。

 

 


道なりに沿って歩き続けていると、視界がほぼほぼ緑色になった。

空も、山も、自分の影さえも。

目に見えるものが、どんどんと緑色に浸食されていく。

まるで異世界に来てしまったかのような、今までとは何もかもが違う色。

 

だけどぼくの心から、先ほどまであった不安が消し飛んでいた。
あまりにもきれいな空。光り輝くようなエメラルド色。


ぼくは空に見とれていた。
ぼくは不安も、星を見たい焦燥感も、これまでの旅の悲しもすべて忘れていた。

 

 

 

アヒルに背中を小突かれて、ぼくははっと我に返った。

気が付けば、目の前に小さな集落があった。

空ばかり見ていて、全く前を見ずに歩いていたようだった。
整備されていないでこぼこの道の脇に、土を盛ったような大きな塊がいくつもあり、それらには無数の四角い穴が空いていた。
おそらくこれは家なのだろう。よく見るとドアもついている。
形だけ見れば道も家も不格好なのだが、全てが空の緑色を映し出しているため、どことなく透き通ってきれいだった。

 

 

 

だが、ちらほらとすれ違う人たちは、みんな背中を曲げて下を向き、のそのそと引きずるような足取りをしていた。
集落はきれいなのに、どことなく陰気な空気が漂っていた。


ぼくが突っ立ってまた空を眺めていると、ガシャン!という音と共に、ぼくの足元に金色の何かが転がってきた。
拾い上げてみると、それは葉巻が一本だけ入ったシガレットケースだった。
金色で細かい花の模様が描かれている美しいものだ。
ぼくの前には背の高いヤギが歩いている。おそらく彼が落とした物だろう。

 

「ちょっと、きみ」

 

ぼくはヤギを呼び止めた。
ヤギは立ち止まると、めんどくさそうにゆっくりとこちらへ振り返った。


ぼくはヤギを見てぎょっとした。
毛並みは悪く、角は折れ、その目に生気(死んでいるが)が全く感じられない。あきらかに普通の状態ではなかった。

 

「こ、これ、落としたよ」

ぼくは少しどもりながらも、ヤギにシガレットケースを渡した。
反応が無い。
しばらく沈黙が続き、ようやくヤギは「・・・ああ、ありがとう」と言って、ぼくからシガレットケースを受け取った。
彼の手は人と獣を合わせたような形をしていた。そしてその爪すらもひび割れ、折れていた。

 

「きみ、大丈夫なの?」
ぼくは眉をひそめ、ヤギに尋ねた。

「・・・ああ、うん」
どう見ても大丈夫ではない。

 

「一体何があったんだ。ここにいるひとたち全員が元気がないように見えるぞ。きみも早く休んだ方がいいんじゃないか?」

ぼくがそう言うと、彼は目を閉じてつぶやいた。


「休みたくても、休めないんだ」

 

「え?」

 

「空を見て見ろよ。いや、見なくても分かるか。きれいな緑色だろ?ここはな、昼も夜もずっとこの空なんだよ。夜が来ないんだ」

「夜が?」

「そう。なんでかは知らないが、白夜ってやつなんだよ。あのばかでかい月も、ここでは一切見られない。夜も、朝も、夕方もない。ずっとずっと昼間なんだ。おかげで眠れるタイミングがなくってね」

 

ぼくはこの集落の違和感に気が付いた。
外灯が一つもないのだ。

 

「でも、家に暗幕でも貼ればいいじゃないか」ぼくは言った。

 

ヤギはふっと寂しく笑った。

 

「この空、本当にきれいだよな」
ヤギは空を見上げた。

 

「これを見つめているとな、星を見たい焦燥感や不安や悩み、過去の忘れられない出来事、悲しみ、何もかもがすーっと消えていくんだ。何に苦しんでいたのかわからないくらい。
あんたもそうなっているんじゃないか?」

 

ヤギの言った通りだった。ぼくもこの空に心を奪われていた。何も考えられず、ただただ見とれていた。

 

「ずっとずっと眺めていたい。そう思っただろ?・・・この緑色は、いわば精神安定剤なんだよ。これさえあれば、俺は心安らかに居られる。もう月を眺めて苦しむこともない。
・・・だからこそ、家のカーテンを閉められないんだ。カーテンを閉めてしまうと、このエメラルドの世界と離れてしまうから。離れたくないんだ、安心していたいんだ。
そのおかげで、ここにいるやつらは全員ひどい寝不足ってわけなんだよ」


ぼくは信じられなかった。こんなに美しい空が、人々をこんなにひどい状態にしているなんて。
だけど目の前にいるヤギの状態を見ると、信じざるを得なかった。

 

「こんなひどい顔になっているのに、なんできみはまだここにいるんだ?ここにいたら、いずれ憔悴しきってしまうだろ」

ぼくが訪ねると、ヤギは口角を少しだけ上げた。

 

「何、心配ないさ」

 

すると、家の中から次々とひとが出てきた。
彼らは道に立ちすくし、みんな空を見上げ始めた。

 

「ああ、そろそろだ」

 「何が起こるんだ?」

 「夜が来るんだよ。ほら」

 

そう言ってヤギが指さした空の先に、真っ黒な何かがうごめきながらこちらへ向かってきていた。

 

 


それは黒いカラスアゲハだった。
数百、数千、数万。とにかく数えきれないほどの蝶たちが、西の空から飛んできた。
蝶の羽音と風が集落へと吹き荒れ、ぼくたちは足を踏ん張って耐えた。

 

「なんなんだこれは!」

羽音に消されないよう、ぼくは大声でヤギに聞いた。


「夜だ、夜が来たんだよ!」
ヤギも負けじと大声で返してきた。


「ここら辺を周回している蝶々だよ!定期的に・・・数か月に一度、ここの上を通るんだ。その間はすっかり暗くなるんだよ!」

 

「彼らは夜を運んできてくれるんだ!!」

別の場所から、喜びの叫びが聞こえてきた。
さきほどまで陰鬱だったひとびとが声をあげ、この真っ黒な蝶々を歓迎していた。

 


「ようやく久々に眠れる・・・。本当によかった。自分で緑色から離れる勇気なんて持てないけど、こうして強制的に夜にしてくれるから、俺たちはどうにか無事でいられるんだ。
この空も、この蝶々も、俺たちの救世主さ。
世界は本当にうまくできているよ」


ヤギの目じりは下がり切っていた。よっぽどほっとしたのだろう。


「ああ、あんた。ここはもうじき真っ暗で何も見えなくなる。早く離れた方がいい」

 

「あんたは、ここにとどまらない方がきっといい。それじゃ」


ヤギはそういうと、急ぎ足で大きな土山の家へと帰って行った。

 

まごまごしているうちに、あたりはあっという間に真っ暗になった。
蝶たちが空を覆うと、不思議と風が収まり羽音もしなくなっていた。
まさに一面の『闇』だった。
ぼくは自分の手すら見えないこの状況にどうすることもできず、立ち止まっているしかなかった。
もっと早く状況判断していれば。後悔ばかりが残った。


ぼくはその場へ座り込んだ。

 

 

 

黒い世界

 
今何時なのだろう。もう夜が来たのだろうか。それとも、もう朝になっているのだろうか。
あれからどれくらいの時間がたったんだろう。
一時間?十時間?それとも、まだ一分?

 

全てが遮断されてしまっていた。
何も見えない、何も聞こえない。
ぼくは自分の感覚を失くし始めていた。

 


眠ることも出来なかった。今自分が目を開けているのか閉じているのかすらわからなかった。
指を動かしてみても、動いているかどうかわからなった。
ぼくは恐怖に襲われ、それ以上体を動かすことが出来なかった。
ぼくは今目を開けているのだろうか。指はちゃんと動いたのだろうか。そもそもここはまだあの集落なのだろうか。蝶に流されてどこか暗闇の底へ落とされたのではないだろうか。ぼくは地面の上に座っているのだろうか。

 

 

 


アヒルは?アヒルはどこにいるのだろうか。

どこにも誰もいない。
もしかしたら、ぼくは本当の本当にたったひとりになってしまったのかも知れない。


怖い、怖い、怖い。

ひとりぼっちに慣れていたなんて、嘘だったんだ。
寂しいと思ったことがないなんて、嘘だったんだ。
だってひとりはこんなに寂しくて怖いじゃないか。


ぼくはきっと、自分の寂しさを見て見ぬふりをしていただけだったんだろう。
どうして、どうして。自分のことなのに、そんなことすら気が付かなかったんだろう。
何でもっと自分をわかろうとしなかったんだろう。
そうしたら、もっと素直に生きられただろうに。
こんなことにならなかっただろうに。

 

ぼくは気が狂いそうになって、手を思いっきりばたつかせた。
すると、何かふわふわしたものに触れた。
もう少しばたつかせてみると、それは確かにそこにあった。
それはまぎれもない鳥の羽で、ほんのりと温かかった。
それはぼくが触れると、そっと手を握り返して来た。

 

 

 

 

ぼくはほっとしたのかよくわからないが、涙をこぼしてしまった。
幸い、涙は暗闇が吸ってくれて、誰にも見られることがなく消えて行った。


ぼくはフラフラと立ち上がり、アヒルに声をかけた。

「少し暗いけど、進もうか」

ぼくがそう言い終わると、また手にふわっとした羽が触れた。
「わかったよ」という合図だった。


ここにとどまっている必要なんてない。
暗闇が明ければ、また緑色の空が現れる。
ぼくは二度とあれを見てはいけない。ヤギに言われた通り、それがいいのだろう。

杖で一歩先をつつき、ぼくは歩き出した。
この世界に来て最初に手に入れた杖が、こんな形で役に立つなんて思ってもいなかった。
ぼくの後ろからペタペタと水鳥の足音がちゃんと聞こえてきて、ぼくはためらいなく前へ進めた。


どれくらいの時間歩き続けたのか、どれくらいの距離を歩いたのかわからない。
だが少しずつ視界に光が刺し、ただの暗闇が蝶の形へとなってきた。
やがて蝶の集団が空の彼方へと旅だって行った時、ぼくは久々に空を拝めた。
それはここに来て最初に見た、あの雲ひとつない青い青い空だった。

 

 

 

ぼくは大きく息を吐くと、その場にへたり込んだ。
緊張と恐怖と、いろいろな体験から解放され、どっと力が抜けてしまった。
アヒルがぽんぽんとぼくの肩を叩き、ぼくは力なく笑った。

 

周りを見回すと、ここはどうやら先ほどまでいた集落とは全く別の場所だった。
緑の空も、土の家も、あのヤギもいなかった。


あれは幻だったのだろうか。
ぼくの心が見せた幻覚だったのだろうか。

 

蝶がすっかり見えなくなってしまった今となっては、わからなかった。
だけど、ぼくの心はとても晴れていた。