紳士とアヒル


No.1

まず、ぼくがここに来た時のことを話すことにしようか。
目が覚めると、視界いっぱいにただただ青色が広がっていた。
その青色が空の色だと理解するのに、ぼくは少し時間がかかってしまったんだ。
何せその空には雲がひとつもなく、青い絵の具を均一に塗ったような感情の無い色だったから。
その生きているとは思えない、だけと天国のものとも思えない青色を眺め、ぼくは「ああここはたぶん、地上でも天国でもないんだな。ぼくは死ねなかったけど、おそらく生きられなかったんだな」とわかってしまった。
わかってしまったんだ。

 

ぼくは病院の真っ白なベッドで眠っていたはずだった。
何日も何日も身体もろくに動かせず、ただ眠って、そして目が覚めてみるのは薄汚れたクリーム色の低い天井だけだった。
それが突然青色に変わり、おまけに手足まで自由に動くようになった。
普通なら大喜びするだろう。だけどぼくは全くそう思わなかった。
身体はとても軽かったけど、心はとても重たかったからだ。


この自由な体は、ぼくが二度と大好きな喫茶店のコーヒーを飲めなくなることを意味していたし、この異様な青は、心に安息をもたらしてくれる所か、ぼくに得体の知れない不安と焦燥感を掻き立ててきた。

 

 

この世でもあの世でもない。ぼくはそんな半端な所に、たった一人で来てしまったんだろう。
ぼくはなんだか寂しくて仕方なかった。

青さに吸い寄せられてふらふらと歩いてみると、すぐ小さな街を見つけた。
だけど様子がおかしい。道行く人は人じゃない姿をしているし(人かどうかもわからないが)、建物はどこもかしこも崩れかけていた。さらに道端からは雑草と一緒にビルのようなものが「生えて」いる。
何が何だかわからない。ぼくは混乱し、立ち止まった。どうしていいかわからなかったんだ。

「どうかしたのかしら?」
すると、どこからか声が聞こえた。ぼくははっとなって周りをきょろきょろと見回したけど、誰もいない。
「こっちよ。右と左を見ているのに、どうして下を見ようとしないの?」
下を見ると、小さな赤い花があった。

赤い花の五枚の花びらはあきらかにぼくの方を向いていた。だけど、そんなまさか。
「花がしゃべった?」
ぼくは思わずつぶやいた。
「あら、花は喋るものよ」
信じられないが、その赤い花から声が聞こえてきた。
ぼくはかがんで、花と視線を合わせた。
「いや、植物は普通喋らないよ」
「それはあなたが植物とお喋りしようとしていなかっただけよ。もしくはその植物があなたと喋りたくなかったのかもね。それで、ぼーっと突っ立ってどうしたの?」
ぼくは赤い花に何から話していいか迷った。言葉がうまく出てこなかったが、とりあえずぼくの混乱を聞いてもらおうと、細切れながらに頑張って話してみた。

「人がいない。みんな人じゃない姿をしている。どうして建物が崩れて、生えているの?なんで植物が喋っているのもわからない。わからないんだ、理解が出来ない。ぼくが分かることが何にもない」
「なんだかだいぶ混乱しているみたいね」
赤い花は葉っぱを揺らし、ぼくに葉先を向けてきた。
「理解なんかしようとするから訳が分からなくなるのよ。そんなものやめてしまいなさい。大丈夫よ、その混乱はそのうち収まるから。いつまでも混乱し続けているひとなんていないもの」
「そんなのいやだよ。どうにかして今すぐ落ち着きたい」
「それは無理よ、あきらめなさい。わたしたちのようなちっぽけな生き物はね、何もかも理解できるほど上手に出来ていないの。でもね、分からなくても問題ないのよ。現にあなたはわたしのことを分かっていないだろうけど、わたしととお喋り出来てるじゃない」


赤い花の理屈にぼくはいまいち納得出来なかった。だけど、実際ぼくは理解不能な赤い花とこうして喋っているので、反論も出来なかった。

 

「わたしはわたし、あなたはあなた、みんなはみんな。この世界ではそれが顕著に出ているだけよ。地上と何ら変わりはないわ。そうだ、これあげる」
赤い花は自らの花びらを一枚引きちぎると、ぼくに渡してきた。
「お守り変わりに持っていなさい。これから先、もっともっと分からないことが沢山あるだろうけど、わたしの言ったことを忘れないようにね」
ぼくは小さな赤い花を手のひらで受け取った。五枚あった赤い花は一枚欠け、そこから花の向こう側が見えた。
「なんでぼくにこれを?」
ぼくが驚いていると、赤い花は四枚の花びらを風に揺らした。


「わたしはとっても小さいし動くことも出来ないけど、それでも誰かの役に立ちたかったの」


表情が無い赤い花が、ふっと笑ったように見えた。